西ドイツでの思い出

中学2年の時、父の仕事の関係で1年間西ドイツ(ドイツ連邦共和国)で暮らしました。
住んでいたのはマールブルクという人口2万人あまりの大学町。
私は小学5年生の弟と一緒に地元の国民学校に編入されました。

ちょうどミュンヘンオリンピックと札幌オリンピック(冬季)があった翌年で、
日本人への感情はかなり良くて、父も住まい探しに苦労しなかったそうです。

それでも国民学校では「やーい中国小僧」と最初の頃ははやし立てられ、
いじめられました(日本人も韓国人も中国人もみな区別がつかないのですね)。

西ドイツでは(今もそうだと思いますが)小学4年生から5年生に上がるところで
能力別進路選択が行われます。
少数のギムナジウム(大学等高等教育進学コース)、
実業学校コース(専門技術者教育を受けるコース)、
そして同学年の約7割が進む国民学校コースです。

国民学校は1年生から12年生まであり、各学年1クラスでした。
学費は12年生まで無料で教科書も無償貸与でした。
(貸出なので、私の教科書には過去の履修者の名前が昔の図書カードのように書いてありました)

当然ドイツ語は全くわかりませんし、英語も日本で1年間しか習っていませんから、
1か月近くはクラスの友達とはほとんどコミュニケーションがとれません。
わずかに担任の先生が連絡事項を伝える英語だけが細い糸でした。
それでも1年後に帰国する頃には、そこそこ会話ができ、
授業でも指名されれば回答できるくらいにはなりました。

授業の中にはキリスト教の授業もあって、
その学校はプロテスタントルター派の学校だったらしく、
イタリア移民の子どもやポーランドの子どもは(カトリック教徒なので)、
その時間になると教室から姿が消えました。
私はその時間も“一緒に参加していいよ、と言われ、聖書のお話を聞いていました。

得意になって活躍できたのは体育の時間と数学の時間。
体育は何か球技ばかりやっていたような記憶があります。
サッカー、バレーボール、バスケットボール、持久走や短距離走や水泳もあったな。

数学は日本の同年代に比べて半年くらい遅れた内容なので、毎回満点をとって、
「TAKASHIは頭がいい」と誉められていい気になっていました。
まあ平均的な能力の子どもだけの国民学校ですから、あまり自慢できるものではありませんね。

帰国してまた同じ東京都の中学校で一学年下りて、中学2年に再編入されました。
同年齢の競争から離脱し、1年年下の“同級生”の中に入った時から、
私はアウトサイダーのポジションに立つことができるようになりました。
おそらくこのことが私のその後の人生で大きな意味があったと気づいたのは、
会社勤めを始めて5年ほどしてからのことです。

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